2018年4月15日日曜日

友達についての思索・7

 タブレットを持つ。ガラパゴスケータイを保持したまま、ポータブルパソコンとしてタブレットを持つことにしたのだった。
 タブレットでLINEとかを始めることで、ガラケーのほうのメール機能はまったく必要なくなったので、月々300円ほど掛かっていたそちらの契約は解除した。だからガラケーは本当に電話番号で電話をするだけの、「距離の制限なく使える子機」みたいな感じになった。そもそもが骨と皮だけのような、月々1000円掛かるかどうかみたいな契約だったのが、これによって完全にミイラのごときレベルになった。たしかに生命であったという痕跡だけが残っているような状態。
 auの窓口で手続きを頼んだら、とても簡単に、「じゃあ今からメールはできなくなります」という感じで、機能をストップされた。それで問題はないのか、なにしろこれまでLINEをしていなかった人間であるわけだから、メールアドレスでしか繋がっていない関係性だってあるわけだろう、そういう人たちに対しての断りは必要ないのか、という話だが、どっこい問題はないのである。まず前提として友達の絶対数が少ないのに加え、この数年の世間のメール離れ、LINEガバガバな風潮によって、こんな僕とメールで繋がりを継続し続けてくれるような関係性の人は、母と姉を除けば(ファルマンとはショートメールを使っていた)、ただのひとりもいなかったのである。だからとても身軽に、auのメールアドレスを破棄することができた。この身軽さこそが、人間関係ミニマリストの身上だ。
 と言いつつタブレットでLINEを始めるのだから矛盾しているわけだが、これは世間の荒波と言うか、社会人としての事情なども関わってくるので、個人の信念とは関係のないどうしようもない部分なのである。ただしLINEは電話番号でするわけではないので、そうガバガバと人(特にこれまでの人間関係)と繋がるわけではなく、ある程度の選別ができるらしく、それも大事だと思ったため、こうしてスマホ1台ではなく、ガラケーとタブレットの2台持ちの状態を選択することにしたのだった。ちなみにふたつ合わせても格安スマホの契約より少し安いくらいである。
 もっとも徹頭徹尾、タブレットを持たざるを得なくなった今回の状況に対して忸怩たる思いかと言えば、もちろんそんなことはない。スマホというものにはどうにも魅力を感じることができないのだが、ファルマンが僕に先んじてこの2台持ちの状態となり、その様をすぐ傍で眺めてきた結果として、タブレットはあるとよさそう、タブレットを持つことを想像するとワクワクする、と感じていた。それはタブレットが、進化したケータイではなく、ノートパソコンの亜種だから(あくまで個人的な見解として)で、ノートパソコンの亜種が30000円あまりで買えるのだから、かつてノートパソコンしかなかった時代に較べ、現代はとても買い時なのではないかと思う。そしてノートパソコンの亜種として持つので、当然キーボードは必要になってくる。あんな画面上の平面のキーなんか打てない。あれはスマホ側の文化だから、唾棄すべきものだ。だからキーボードも買った。それも携帯用ではあまりない、折り畳みとかフニャフニャとかそういうんじゃない、けっこうちゃんとしたキーボード。それでキーボードを選んでいたとき、マウスとセットの商品なんかもあって、ファルマンに「マウスもいるかな?」と訊ねたら、それはさすがに呆れられた。しかしスタンド台は買った。ただ傾けるだけはなく、なるべく画面を目線の高さにしたくて、書見台のようなやつを注文した。書見台のようなやつにタブレットを置き、キーボードを接続して、そうして僕のタブレットスタイルは完結するのだと思う。我ながら旧時代感がとてつもないと自覚している。もうパソコンの所で止まってしまって、それ以上のテクノロジーは受け入れられないのだと思う。仕方がない。誰か友達になってください。LINEしようぜ!