2018年4月2日月曜日

友達についての思索・6

 どういう話の流れだったのか、その場にいなかったので判らないけれど、島根の実家において、「僕に友達がいない」という話題になったらしい(これはいじめではないのか)。そしてその際、あの典型的な友達が多い人種であるところの、僕の姉と同タイプの、あの三女が、不思議そうにこう言ったのだそうだ。
「なんでパピロウちゃん、友達できないのかな。おもしろいし、やさしいし、普通にできそうなのに」
 本当にそう、と思った。本当にそうだ。解る人には解るんだ。日々せっせと誠実に生きてきた努力が報われたような気がした。思えばこれまで僕は、切々と気持ちを訴えてもなんの反応もないブログや、僕よりも多少友達はいるけれど僕よりも人類愛が圧倒的に乏しい妻にしか、「友達がいない、友達が欲しい」ということを主張してこなかった。それが間違いだったのだと瞬間的に悟った。向こう側に誰もいないブログ画面や、人間的情緒の欠損した妻に、僕の気持ちも、魅力も、尊さも、受け止められるはずがなかったのだ。僕はこれまで、馬の耳に念仏を唱え続けていたのだ。それに較べて三女の友達の多さ加減と言ったら一遍上人レベルであり、それならば耳元に念仏を唱える意味も出てくる。そしてまっとうな反応が返ってくる。「どうしてかな、おもしろいし、やさしいのに」。この説得力。言われてみれば僕は本当におもしろいしやさしいのに、なんでこんなにも友達がいないのか。これってもしかして、僕が原因なのではなく、人間界だけに収まらない壮大な世界観による大スペクタクルな力によって、ここだけ作用と結果の関係性が捻じ曲げられているのではないか。僕に友達ができないのは、宇宙のバランスを保つための忖度が働いているのではないか。そう思った。思ったと言うか確信した。だってそうでなければどうしたっておかしいもの。だっておもしろいしやさしいのに!
 しかしそんな三女のつぶやきに対して、僕の長女、7歳、ポルガが、こう言ったという。
「だってパパ、プライド高いもん」
 マジかよ、と思った。本をたくさん読む小学生女子なので、普段からとても小生意気だと感じていたが、もう、7歳でもうそんなことを言うのか。そんな、そんなに本質を突くようなことを言うのか。言ってしまうのか。小生意気で、観察眼が鋭く、的確な言葉を知っているのに、思慮だけがまだ嘘みたいに欠如している、とてもおそろしい生きもの。早く、早く、教科になったという道徳の効果が現れてほしい。「事実だからって言っちゃいけないこともある」ということを学んでほしい。
 でもそんな娘の容赦ない言葉の平手打ちによって、目が覚めた。そうだ。友達が多い人種の、「なんで友達ができないのか不思議」発言って、それってよく考えたら別に喜ぶものじゃない。これって本質的には「パンがないならケーキを食べればいいのに」であり、お前に俺たちの苦悩が解るものか! と革命の原動力となる怒りをぶつけるべきだったのだ。満たされている者に、貧しい者の気持ちが解るものか! 危うく騙されるところだった! 武器を持て! 立ち上がれ! 列に入れよ、我らの味方に! 砦の向こうに世界がある! 戦えそれが自由への道!
 僕は誇り高き戦士。けれどいったいなにと戦っているのだろう。