2018年1月27日土曜日

友達についての思索・1

 ファルマンの下の妹がこのたび島根に帰るための引っ越しを行ない、部屋の引き渡しを済ませた当日は、わが家に泊まったのだった。それで久しぶりに、ファルマン以外の人間ときちんと話をして、ああ他者というのは、他者と絡むというのは、そう言えばこういうことだったな、という感触を思い出した。普段の生活ではそれが本当にないものだから、その感触を忘れてしまい、いつしか自然と美化して、それが欠乏している暮しを憂えたりしてしまうけれど、こうして実感をすると、それがどうしようもない間違いであったことに気付かされる。
 特にこの下の妹というのが、僕やファルマンとは正反対の、友達たくさん体質、友達べったり体質で、僕の座右の銘である「なやむけどくじけない」をもじって、「なやまずくじけずはげましてもらうそしてきずながふかまる」と、以前にキャッチコピーをつけたほどで、今回もその性質をまざまざと見せつけ、僕の「友達が欲しい」という欲求を見事な手腕で萎えさせた。そうか、友達というのは、いたらこんなにも厄介なものなのだな、と再認識した。
 引っ越しの現場の話を聞けば、今月中旬にわが家が出向いて段ボール箱を量産した日から、わずかな出勤を経て、10日あまりも自由期間があったにも関わらず、やはり準備は整わず、前日に友達相手に泣きついたところ、平日にも関わらず休みだという友人がひとり手伝いに来てくれることになり、その子の助力によりやっとどうにかなったという。信じられない。シフト制で平日が休みの友人を、引っ越しに駆り出すなよ。引っ越しって大変じゃん。しばらく後を引くじゃん。その日が休みかどうかという簡単な話ではない。引っ越しは労働である。友達クーポン程度で購える作業ではない。さらに言えば、わが家に泊まるのはまあいい。でも荷揚げは16時ごろに終わり、島根の実家での荷降ろしは翌日の午前中なのである。特急やくもで3時間。じゃあ帰ればよくねえ? という話だ。荷降ろしは向こうで母親が対応し、本人は昼過ぎの岡山発で帰るのだという。それ、荷降ろし作業から逃げてない? 火を見るより明らかに逃げてない? と思う。
 三女の末っ子特有の依存体質、というのもあると思う。もちろん友達という友達がみんなここまでではなかろう。でも顕著な例を目の当たりにして、これほどの濃厚さでないにしても、友達というのはつまりこういうことなんだよな、と思った。泊まった夜に会話をしていて、辞めた会社の愚痴を普通に話しはじめたのにもびっくりした。そんな内向きな感情の話をさらりとするだなんて、友達が多い人というのは、自分の内と外の境界線が存在しないのではなかろうか、と思った。蛇が空腹のあまり自分の尻尾を丸飲みしはじめたら、最終的に胃袋が外側にひっくり返ったものになるのか、という話があるけれど、友達が多い人の世界観というのは、言わばそのようなものなのかもしれない。胃袋がひっくり返ることにより、この世のすべてが蛇の内側になるように、自分とそれ以外の境界線を消すことにより、この世のすべてが自分になるのかもしれない。
 想像がつかない。思えば山之辺は最後に宇宙生命となり、火の鳥の体の中に飛び込んだ。そのとき火の鳥はこう言ったのだ。「あなたは私になるのよ」。山之辺はその境地に至るまでに、三十億年かかった。しかし友達が多い人々は、それを瞬間的にやってのける……。